日石寺について
日石寺の由来
巨岩や奇岩の多いこの地に、立山や剣岳を信仰する山岳宗教の修行者が行場として興り、地名を大岩と呼ばれました。修行者の信仰の対象となる不動明王が巨岩に彫られ、行場が益々興隆していきました。
平安期に寺院が建立され、室町期までに真言寺院として六十の坊社を有し、それらを総称し金剛不壊寺と呼ばれました。天正年間に僧兵を約千人抱え、上杉謙信と対立し豪族の土肥氏を庇護したことにより山内全てが焼失しましたが、慶長年間に加賀藩前田利常の庇護により再興され大岩山日石寺と称しました。
加賀藩の子孫繁栄の祈願所と定められ、北陸・信越・中部地方の一大不動霊場として興隆を極めましたが、昭和四十二年に再び火災に遭い、江戸期の建物・資料の大半を焼失したが、二度の火災を不動明王像は損壊を免れ、翌年に不動堂が再興され、現在に至っています。
宗派 /真言密宗
本尊 /不動明王
国内における摩崖仏の最高傑作といわれ、凝灰岩の巨岩に神亀二年(七二五年)に奈良時代の高僧行基により一夜にして彫られたと伝わっています。
不動明王は剣岳の本地仏・行者の守護本尊として、半肉彫りで彫りだされ、やや傾斜しており、拝む者と目線が合うように技法が駆使されており、見るものに抱擁感と迫力の両方を与える威容を示しています。
不動明王摩崖仏
この不動明王に向かって右に矜羯羅童子、左に制咤迦童子の二童子が矜侍として彫られています。平安末期の追刻として、右方中央に阿弥陀如来坐像、左方中央に行基菩薩と伝わる僧形坐像があります。僧形は立山開山の慈興との説もあります。
天正の兵火により制咤迦童子と僧形に剥落した部分がありますが、地震や風化等の影響は少なく、昭和五年に国指定史跡、昭和四十九年に国指定重要文化財の二重指定を受けています。